今村先生の原点

先日、会員制のオピニオン雑誌『月刊致知』の取材を今村先生がお受けになりました。

場所は原宿にある致知編集部。

こちらの会社、社員教育がしっかりしていて、お客さんが来ると、みなさん、席を立ちあがって、こちらに向かって挨拶してくれるという。

さすが致知!

で、インタビューの最初にお茶が出て、しばらくするとコーヒーが出るというもてなしぶり。

さすが致知!

まあ、それはいいとして・・・、

取材時間は1時間の予定だったんですが、盛り上がってしまって、なんだかんだで1時間半くらいいました。

事前に質問事項をいただいていて、それに対する回答も先生が文書にして先方に送っていたのですが、

その回答文書というのが、実に丁寧で、これさえあればインタビューの必要ないんじゃないのっていうくらいのものだったので、もったいないので、こちらで公開させていただきたいと思います。

ちょっとした論文レベルですので。

雑誌の取材でここまで用意するなんて、さすが今村先生です。勉強になります。

で、この文書には書かれていないのですが、インタビュー中の会話で初めて知ったのが、今村先生の原点です。

子供の頃、貧しい生活をしていたという先生は、親からシュリーマンの本をプレゼントされ、それが嬉しくて、何度も何度も読んでいたそうです。

シュリーマンといえば、子供の頃に読んだ古代ギリシャの物語を歴史の真実だと信じて、大人になってからトロイの遺跡を発掘したという人物。

先生の原点はシュリーマンだったのかというのを知って、なんだかすごく感動しました。

今村先生は、日本における現代のシュリーマンなんだなと。

 

では、致知にの質問に対する先生の回答文書をどうぞ。

 

月刊『致知』随想取材レジュメと応答文          平成30年5月1

今村 聰夫

1.          現在のご活動について・特に力を入れてとりくんでおられること

近年SNSの普及によって、若い方々がホツマツタヱに興味を持たれるようになりました。

2016年秋にホツマ発見50周年の記念イベントが東京と滋賀県で開催され、時を同じくして拙著『はじめてのホツマツタヱ天の巻』(2015年9月)が発売となり、続いて地の巻(2016年5月)・人の巻(2016年9月)が発売出来たのは抜群のタイミングで、多くの若い方々と出会うことができました。

今、一人でも多くの若い方々に、ホツマツタヱを知って頂く機会を増やし興味を持っていただくよう、勤めています。

また、イベントを通じて、私より干支一回り年下の優秀な研究者(小深田宗元氏)と出会えたので、私の脳裏にあるものを全て伝え、研究の進展に役立てて頂きたいと「ホツマ赤坂研究会」で月一回の会合で励んでおります。

赤坂研究会では、創刊16年目で今年末に100号となる隔月刊研究誌『検証ホツマツタヱ』の発行人:宮永光雄氏と編集長:原田武虎氏に加え小深田氏と創刊に尽力された倉田俊介氏と私の6人主体で月一回の編集会議を行っています。

 

2.『ホツマツタヱ』との出逢い・ホツマに出逢ったいきさつ 最初に読んだ時の印象や感動

ギリシャ・ローマ神話など海外の古典を翻訳書で読むと、日本語で書かれていても、舞台となっている国の人々が発する世界観・価値観が匂ってくるように感じられるものです。

私は記紀を繙くうちに、本来の日本人とは異なる世界観・価値観が匂いとして鼻を衝くように感じ、次第にそのことに囚われるようになりました。

本居宣長は「古事記はヤマト心、日本書紀は唐心」として、古事記を尊重しました。

私の感覚では「日本書紀は唐心」は宣長と同じですが、「古事記は韓心」としか受け取れないのです。

同じ「からごころ」でも、私の感性では記と紀が異なる世界観・価値観を匂いとして感じ取り、その原因を突き止めたいという欲求に駆られました。

記紀の解説書や、古代日本に関する学者の著作を手当たり次第に読みましたが、欲求を満たすどころか、ほぼ同一時代に同一と言える朝廷の中で、二つの歴史書が作られたことに対する疑問を呈する記紀学者が皆無であることに驚きを覚えました。

そうこうする内に、梅原猛氏の全集の中で「梅原日本学」と呼ばれる初期の著作に出会ったのです。

私は古事記編纂の意図を見抜いた哲学者の思索に学び、これまで蓄積して来た疑問点を整理し直して、次の結論を出しました。

「縄文人は日本語表記に適した文字を持ち、歴史書を作っていた」

中国から大挙渡来した帰化人(弥生人)が勢力を増して政権を掌握し、弥生人主導で国政を動かすためには、漢訳した歴史記録を必要としたでしょう。

それによって編まれたのが帝紀・旧事または天皇紀・国記だったと思います。

そして持統朝で実権を握った藤原不比等が、朝鮮系帰化人を使って「祖母から孫への皇位継承を正当化する書」(梅原説)を万葉仮名主体で編んだ古事記を造らせ、帝紀・旧事は古事記の記述内容と齟齬をきたさぬよう改変して日本紀にしたという考えです。

当然、改変された歴史書が作られる時には、それ以前の歴史書は没収され、焚書にされたでしょう。

この結論を基に、私は超古代が実感されるものだけを求めるようになりなりました。

神代文字に関するものを手当たり次第に目を通す内に、本屋の棚から『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』(松本善之助・毎日新聞社)正・続2巻を手に取ったのです。

10分余りの立ち読みで「これだ!」と思い、買って帰りました。

数か月後に著者の松本先生に電話を入れ、ホツマツタヱ原本(小笠原長広本の復刻版)と『月刊ホツマ』のバックナンバーを購入し、3年ほど読んだ上で先生の主宰する「ホツマ赤坂例会」に参加したのが29年前(平成元年)のことです。

 

 ・ホツマツタヱの読解にどう向き合っていかれたか

「ホツマ赤坂例会」に参加したのは、松本先生が大腸癌の手術から退院された時で、ご本人から再三のお誘いがあり、私も師事するなら今しかないと考えたからです。

先生は地方例会を畳まれて「赤坂例会」を拠点に『月刊ホツマ』の刊行を続けられました。

『月刊ホツマ』193・194号(平成2年2・3月合併号への投稿が、私にとって最初の作品で、その後数多くの作品が掲載されましたが、多くは先生からテーマを与えられて書いたものです。

平成4年5月に和仁估安聰直筆の漢訳付写本が発見され、先生は復刻出版に向けて動き出されましたが、丁度その頃に私は構想していたホツマツタヱの現代語訳を、奉呈文から3アヤまで、上段を漢字かな混りの読み下し文、下段を現代語訳文にまとめて先生にお送りしたところでした。

『月刊ホツマ』には奉呈文が224・225号(平成4年9・10月合併号)に掲載され、全アヤを順次連載していく方法等が検討されましたが、幾つかの難題にぶつかって話が進まなくなりました。

漢訳付安聰本は平成5年9月に新人物往来社から出版され、その1年後に『月刊ホツマ』平成6年9月248号を終刊号として松本先生は引退されました。

赤坂例会の会員はそのまま会の続行を望み、ビルの一室を会場に提供されてきた宮永光雄さんも引き続き提供頂けることになって、「ホツマ赤坂研究会」の名で存続することになりました。

ホツマの難解部分や難語は、多勢で討論し知恵を絞ることで解釈が進むことを、思い知りました。ホツマ赤坂研究会の方々には深甚の感謝を捧げます。

私のホツマ現代語訳は、平成14年春にまだやっと7アヤが終わった段階でしたが、会員の倉田俊介さんが隔月刊研究誌『検証ホツマツタヱ』の刊行を提案されました。

朝間ヒラクさんの「ホツマツタヱ真書の証明」と私の「現代語訳」を目玉に掲げる同人誌で、倉田さんご自身が編集人を、宮永さんが発行人を引き受けられて6月に創刊されました。

ホツマ現代語訳は第46号(平成21年12月)で完結し、その後はミカサフミの現代語訳や古事記との二書比較などに遷りました。

倉田さん・宮永さんには感謝しきれません。

『検証ホツマツタヱ』の刊行には紆余曲折があり、平成26年初め、崩壊の危機に瀕した時に手を差し伸べてくれたのが、創刊号以来応援を賜っている原田武虎さんでした。

静岡県沼津市に在住の原田さんは、拙宅に来られるなり私の現代語訳を出版しようと切り出されました。また、平成28年8月は、松本先生が神田の古本市でホツマツタヱの残簡を再発見されて50年になるので、「ホツマツタヱ再発見50年記念プロジェクト」の開催を企画しようと提案されたのです。

検証誌に関しては月1回上京され、編集会議をリードして難題を次々と解決し、執筆者を確保して原稿を集め、紙面を見違えるほどに充実させるという手腕を発揮され、懇願して81号(平成27年10月)から編集人欄に名を出させて頂きました。

その間に、かざひの文庫の磐崎社長と『はじめてのホツマツタヱ』3部作の出版計画をまとめ上げ、天の巻(平成27年9月)、地の巻(平成28年5月)、人の巻(平成28年9月)が50年記念プロジェクトの前に計画通り発売されました。

記念プロジェクトに関しては、多くのホツマ関係者に呼びかけて、10月11日に日本記者クラブでの「記念フォーラム」、11月19・20日に滋賀県高島市で「縄文ロマンの集い」を盛大に行いました。

確かに現代語で訳文を書いたのは私ですが、多くの方々から手取り足取りで著者にして頂いたこの幸せに、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

3.『ホツマツタヱ』にまなぶべきこと・『ホツマツタヱ』にかかれていることを一般の方に分かるようお話しください

 

日本民族は漢字を借用するまで独自の文字を持たなかったとされてきました。

しかし、少なくとも4千年前には、ヲシテと呼ぶ文字を使って通信手段とし、様々な記録文書を作って後世に伝えようとしていました。

ヲシテは日本語の音韻を1字1音で表す、表意表音文字です。

そのことが確認されたのは、今から50年余り前の昭和41年に、松本善之助という方が神田の古本市でホツマツタヱというヲシテで書かれた文献の残簡を見出し、その出所を訪ね歩いて、翌年ホツマツタヱ完本を再発見されたことに始まります。

ホツマツタヱはヲシテで書かれ、5音7音の長歌体が厳密に守られており、1行が12音です。内容は章立てで進み、各章をアヤと呼びます。

ホツマツタヱは第12代景行天皇に献上された奉呈文に続いて全40アヤからなり、約1万行ですからヲシテ12万字で出来上がっています。

書かれている内容は、大きく三つに分類され、先ず1アヤから16アヤまでを「天の巻」とし、日本の基層文化と共に天皇家の先祖(主に天神の時代)がテーマごとに語られます。

時代順に並べ替えてみると、アメノミヲヤカミによる宇宙創成から人類の発生を哲学的・宗教学的に見て、全ての生物は魂と魄に肉体を結い和して天上の神によって地上に降され、生命を終えると魂が解き放たれて天上に戻り、転生を繰り返すと説かれます。

人間も例外ではなく、神意に適う行いが魂を磨いて、来世は一段高いレベルの人として転生できるという思想です。

日本を建国されたクニトコタチは、神意をまとめた「トの教ゑ」を「トのヲシテ」という文書にし、「建国の理念」という形で残されました。

歴代の天神からアマテル神と嗣子オシホミミの時代まで、「トの教ゑ」の細部を補い国政の実践を通じて万民に行き渡らせることが「天の巻」の主なテーマになっています。

次に17アヤから28アヤまでを「地の巻」とし、「トの教ゑ」を更に実践的なものとして明確化し、国政の規範と位置付けて実践していく経過が綴られます。

アマテル大御神の皇孫ニニキネの傑出した人柄と優しさは、大御神に「クニトコタチの更の稜威」と称えられ「別雷の天君」という神名を賜る24アヤは、「トの教ゑ」を君主が完全に履行する治世の素晴らしさを感じさせます。

けれどもニニキネの兄テルヒコ・ホノアカリは、「トの教ゑ」に疎く、二朝並立の状態が生じました。

28アヤはホツマツタヱ前半を総括するアヤになっており、アマテル大御神もお亡くなりになります。

ここまでは寿命が6万年とされるマサカキの枝穂の数で数えるマサカキ暦(鈴暦)が使われていましたが、アマテル神の寿命と共にマサカキが絶滅したので、新たに太陰太陽暦のアスス暦が使われるようになりました。

「天の巻」「地の巻」を編纂したのは六代目大物主クシミカタマです。クシミカタマは先行きに不安が影を落とした状態で「地の巻」を閉じます。

 

最後の分類は29アヤから最終の40アヤまで、「人の巻」です。

並立していた二朝は対立が決定的となり、神武東遷が決行されてテルヒコ・ホノアカリを始祖とするニギハヤヒ政権は消滅吸収されました。

神武朝以降は天皇年暦で時たまアスス暦が表示される暦表記に変わります。即ち神武天皇以降が定型の歴史表記で、日本書紀はこれを踏襲したのでしょう。

そして、二代綏靖天皇から九代開化天皇までは比較的に記事が少なく、従ってホツマツタヱを原資料とする記紀では欠史10代と呼ばれるのも頷けます。

時代は進んで弥生時代中期、10代崇神天皇、11代垂仁天皇と次第に世の中が騒がしくなり、12代景行天皇は自ら熊襲征伐に遠征して平定したにもかかわらずまた謀反が起こり、皇子ヤマトタケを西へ東へと派遣し、平定し終えて帰還の途中で亡くなるという悲劇の結末でホツマツタヱは終わります。

ヤマトタケによる平定も、おそらくは束の間の安定で、ホツマツタヱは完結から百年足らずで隠されるという事実を予感させる終結です。

 

・現代日本人が『ホツマツタヱ』から学ぶべきこと~具体的な文章や言葉などを挙げながらお教えください~ 

 

ホツマツタヱの中で「これがトの教ゑだ」と具体的に説明されているわけではありませんが、幾つか例を挙げてみましょう。

1)スズカとスズクラ「スズカのふみ」(13アヤ)

ホシヰ(欲)を去れば スズカ(鈴明)なり 宝欲しきは末消ゆる

〈欲望を抑える心の強さを持っていることがスズカで、宝が欲しくて集めることに執着することをスズクラ(鈴暗)と言い、先細りで末が消えてしまいます〉

2)行き来の道(13アヤ)

メヲ(陰陽)を結びて 人心 世に帰る時 直ぐなれば また良く生まれ よこ欲しは アヱ帰らぬぞ

〈陰陽のバランスをとって生きることこそ、アメノミヲヤカミが求められる人心であり、直ぐなる心と称えられるのです。そして直ぐなる心を持って生きた人が天に帰り、次にまた生まれる時には、すべてに好条件を満たした人として、生まれて来ることが出来るのです〉

3)天の報い(17アヤ)

天の報いは 盗めるも 誹るも打つも 身にかえる

〈人は感情の赴くままに行動するが、全ての行ないは真澄鏡に写す如く、自分に返って来ます〉

 

4.ご活躍を通じて伝えたいメッセージ

 

ホツマツタヱは記紀の原典であることは、反論の余地がないところまで既に論証されています。

そして今や、ホツマツタヱが縄文・弥生時代の一次資料であることを証明する考古学上の物証が存在しているのです。

その物証とは、島根県雲南市加茂岩倉遺跡の国宝39個の銅鐸です。

ホツマツタヱの34アヤには、崇神天皇60年に起こった出雲フリネ誅殺事件を記録しています。この事件は日本書紀も崇神天皇60年条に書かれています。

「出雲に預け置いた神宝書を崇神天皇がご覧になりたいと仰せになり、朝廷から使節が派遣されました。出雲の神主(首長)のフリネは筑紫へ行って留守だったが、弟のイイリネが朝廷に返上したのです。

筑紫から戻ったフリネは、あわよくば隠匿しようと企んでいた神宝書を正直に返してしまった事に怒り、イイリネを騙し討ちで殺しました。

この弟殺しが朝廷に報告され、フリネの陰謀が露見して君は討伐軍を送ってフリネを殺させました。

その後にヒカトベという人物の子供が詠んだ長歌が両書に書かれています。

ホツマツタヱは57調67音の歌です。

その歌が皇太子を通じて「神の告げであろうか」と天皇に奏上されると、崇神天皇は「出雲祀れ」の勅を出されました。

この歌はホツマツタヱで読むと「出雲の人々は恐れてフリネの遺骸を谷筋の山中に39個の銅鐸と一緒に密かに埋めた」ことが分かります。

崇神天皇は、朝廷として祀りを行い、フリネを鎮魂しなければ、祟る恐れがあると判断されたのでしょう。

けれども、日本書記はホツマのこの歌を漢字訳するに当たって、歌の解釈を誤り、39個の銅鐸は全く姿を消してしまっています。その上、崇神天皇の心を動かして「出雲祀れ」の勅を出させる要素は皆無と思えるのです。

崇神天皇61年(西暦前37年)の事件を記録したホツマツタヱの記述通り、39個の銅鐸が記述通りの出雲の谷合の山中から出土したのです。

これほど確かな物証に裏付けられているのですから、アカデミズムが手をこまねいていても一般の方々は知識として脳裏に刻み付けても無駄にはならないでしょう。

以  上

 

 

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