久々の勉強会です

約2か月ぶりとなる久しぶりの勉強会の日程が決まりました。

9月18日(火)18時から四谷のルノアールにて。3階のB室になります。

いつもより狭い部屋なので、定員12名様となります。

 

今回は7アヤを読んでいきます。

7アヤというと、古事記で有名な天岩戸の物語が語られています。

古事記と比較して読むととても面白いので、

ぜひ、古事記のこのくだりを読んでからご参加ください。

 

 

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次回の「はじホツ」勉強会(7月27日)は「天岩戸開きの原型」の7アヤです

ホツマツタヱは古事記の原典とも言われていて、古事記と読み比べると面白いなあと思うところがいくつもあります。

次回の「はじホツ」勉強会で読んでいくことになる7アヤ(「アヤ」は「章」みたいなもんです)は、古事記で有名な「天岩戸開き」のシーンが描かれています。

古事記では、

泣いてばかりで働こうとしないスサノオを父イザナギが怒って追放→別れの挨拶をしに姉アマテラスのいる高天原を訪れる→侵略しに来たと思ってアマテラスは武装で迎える→無実を潔白するために誓約(5男3女が誕生)→身の潔白を晴らしたスサノオが乱暴狼藉を働く→怒ったアマテラスが岩戸に隠れてしまい世界は闇に包まれる→アマテラスを引き出すために岩戸の前で大宴会→アマテラスが岩戸を開いたすきに引きずり出す

みたいな内容です。

これが「ホツマツタヱ」ではどう描かれているか・・・。面白いです。そもそもホツマではアマテラスは男ですから、古事記と同じストーリーになるはずないんですが、なぜ古事記のようなストーリーができあがったのか、というのがよ~くわかって、なるほど~~となるわけです。

詳しくは「はじめてのホツマツタヱ」を読んでもらうとして、ここでは、スサノオが乱暴狼藉を働いたときに命を落とした女性のことについて少しだけ。

アマテラスと一緒に機織りをしていたその女性は、スサノオが天井から皮を剥いだ馬を投げ込み、それに驚いて機織り機の木材で陰上(ほと)をついて死んでしまします。古事記ではこの女性の名前は書かれていませんが、日本書紀では「一書(あるふみ)に曰く」として、その女性の名前を「稚日女尊」(わかひるめのみこと)としています。

神社の伝承などで、この稚日女尊はアマテラスの妹だとされているところがあり、そんなことは古事記にも日本書紀にも書いてないのになあと思っていたら、ホツマツタヱではこの女性は「ハナコ」といい、一緒に機織りをしていた瀬織津姫(アマテラスの奥さん)の妹となっているわけです。

一緒に機織りをしていたのを古事記ではアマテラスにしちゃったので、姉妹という関係だけ残ってしまって、アマテラスの妹が「稚日女尊」だという伝承が残ってしまったんだなあと、なんか納得した次第です。

この推測があってるかどうかわかりませんが、いろいろ考えると面白いです。

スサノオが高天原に行ったときに武装して対峙したのはアマテラスということになっていますが、このあたりもホツマツタヱでは違ってます。

その辺も、おもしろいです。

今村先生の解説を聞いてみたいところです。

 

ということで、次回の「今村先生を囲んでホツマツタヱを楽しむ夕べ 其の十一」は7月27日(金)18時から四谷のルノアールにて開催。

翌週の8月3日(金)はスピンオフ企画として、みんなで東京国立博物館の縄文展を見に行きます。

 

参加ご希望の方はご連絡ください。

iwasaki0408@gmail.com

です。

 

 

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今村先生の原点

先日、会員制のオピニオン雑誌『月刊致知』の取材を今村先生がお受けになりました。

場所は原宿にある致知編集部。

こちらの会社、社員教育がしっかりしていて、お客さんが来ると、みなさん、席を立ちあがって、こちらに向かって挨拶してくれるという。

さすが致知!

で、インタビューの最初にお茶が出て、しばらくするとコーヒーが出るというもてなしぶり。

さすが致知!

まあ、それはいいとして・・・、

取材時間は1時間の予定だったんですが、盛り上がってしまって、なんだかんだで1時間半くらいいました。

事前に質問事項をいただいていて、それに対する回答も先生が文書にして先方に送っていたのですが、

その回答文書というのが、実に丁寧で、これさえあればインタビューの必要ないんじゃないのっていうくらいのものだったので、もったいないので、こちらで公開させていただきたいと思います。

ちょっとした論文レベルですので。

雑誌の取材でここまで用意するなんて、さすが今村先生です。勉強になります。

で、この文書には書かれていないのですが、インタビュー中の会話で初めて知ったのが、今村先生の原点です。

子供の頃、貧しい生活をしていたという先生は、親からシュリーマンの本をプレゼントされ、それが嬉しくて、何度も何度も読んでいたそうです。

シュリーマンといえば、子供の頃に読んだ古代ギリシャの物語を歴史の真実だと信じて、大人になってからトロイの遺跡を発掘したという人物。

先生の原点はシュリーマンだったのかというのを知って、なんだかすごく感動しました。

今村先生は、日本における現代のシュリーマンなんだなと。

 

では、致知にの質問に対する先生の回答文書をどうぞ。

 

月刊『致知』随想取材レジュメと応答文          平成30年5月1

今村 聰夫

1.          現在のご活動について・特に力を入れてとりくんでおられること

近年SNSの普及によって、若い方々がホツマツタヱに興味を持たれるようになりました。

2016年秋にホツマ発見50周年の記念イベントが東京と滋賀県で開催され、時を同じくして拙著『はじめてのホツマツタヱ天の巻』(2015年9月)が発売となり、続いて地の巻(2016年5月)・人の巻(2016年9月)が発売出来たのは抜群のタイミングで、多くの若い方々と出会うことができました。

今、一人でも多くの若い方々に、ホツマツタヱを知って頂く機会を増やし興味を持っていただくよう、勤めています。

また、イベントを通じて、私より干支一回り年下の優秀な研究者(小深田宗元氏)と出会えたので、私の脳裏にあるものを全て伝え、研究の進展に役立てて頂きたいと「ホツマ赤坂研究会」で月一回の会合で励んでおります。

赤坂研究会では、創刊16年目で今年末に100号となる隔月刊研究誌『検証ホツマツタヱ』の発行人:宮永光雄氏と編集長:原田武虎氏に加え小深田氏と創刊に尽力された倉田俊介氏と私の6人主体で月一回の編集会議を行っています。

 

2.『ホツマツタヱ』との出逢い・ホツマに出逢ったいきさつ 最初に読んだ時の印象や感動

ギリシャ・ローマ神話など海外の古典を翻訳書で読むと、日本語で書かれていても、舞台となっている国の人々が発する世界観・価値観が匂ってくるように感じられるものです。

私は記紀を繙くうちに、本来の日本人とは異なる世界観・価値観が匂いとして鼻を衝くように感じ、次第にそのことに囚われるようになりました。

本居宣長は「古事記はヤマト心、日本書紀は唐心」として、古事記を尊重しました。

私の感覚では「日本書紀は唐心」は宣長と同じですが、「古事記は韓心」としか受け取れないのです。

同じ「からごころ」でも、私の感性では記と紀が異なる世界観・価値観を匂いとして感じ取り、その原因を突き止めたいという欲求に駆られました。

記紀の解説書や、古代日本に関する学者の著作を手当たり次第に読みましたが、欲求を満たすどころか、ほぼ同一時代に同一と言える朝廷の中で、二つの歴史書が作られたことに対する疑問を呈する記紀学者が皆無であることに驚きを覚えました。

そうこうする内に、梅原猛氏の全集の中で「梅原日本学」と呼ばれる初期の著作に出会ったのです。

私は古事記編纂の意図を見抜いた哲学者の思索に学び、これまで蓄積して来た疑問点を整理し直して、次の結論を出しました。

「縄文人は日本語表記に適した文字を持ち、歴史書を作っていた」

中国から大挙渡来した帰化人(弥生人)が勢力を増して政権を掌握し、弥生人主導で国政を動かすためには、漢訳した歴史記録を必要としたでしょう。

それによって編まれたのが帝紀・旧事または天皇紀・国記だったと思います。

そして持統朝で実権を握った藤原不比等が、朝鮮系帰化人を使って「祖母から孫への皇位継承を正当化する書」(梅原説)を万葉仮名主体で編んだ古事記を造らせ、帝紀・旧事は古事記の記述内容と齟齬をきたさぬよう改変して日本紀にしたという考えです。

当然、改変された歴史書が作られる時には、それ以前の歴史書は没収され、焚書にされたでしょう。

この結論を基に、私は超古代が実感されるものだけを求めるようになりなりました。

神代文字に関するものを手当たり次第に目を通す内に、本屋の棚から『秘められた日本古代史ホツマツタヘ』(松本善之助・毎日新聞社)正・続2巻を手に取ったのです。

10分余りの立ち読みで「これだ!」と思い、買って帰りました。

数か月後に著者の松本先生に電話を入れ、ホツマツタヱ原本(小笠原長広本の復刻版)と『月刊ホツマ』のバックナンバーを購入し、3年ほど読んだ上で先生の主宰する「ホツマ赤坂例会」に参加したのが29年前(平成元年)のことです。

 

 ・ホツマツタヱの読解にどう向き合っていかれたか

「ホツマ赤坂例会」に参加したのは、松本先生が大腸癌の手術から退院された時で、ご本人から再三のお誘いがあり、私も師事するなら今しかないと考えたからです。

先生は地方例会を畳まれて「赤坂例会」を拠点に『月刊ホツマ』の刊行を続けられました。

『月刊ホツマ』193・194号(平成2年2・3月合併号への投稿が、私にとって最初の作品で、その後数多くの作品が掲載されましたが、多くは先生からテーマを与えられて書いたものです。

平成4年5月に和仁估安聰直筆の漢訳付写本が発見され、先生は復刻出版に向けて動き出されましたが、丁度その頃に私は構想していたホツマツタヱの現代語訳を、奉呈文から3アヤまで、上段を漢字かな混りの読み下し文、下段を現代語訳文にまとめて先生にお送りしたところでした。

『月刊ホツマ』には奉呈文が224・225号(平成4年9・10月合併号)に掲載され、全アヤを順次連載していく方法等が検討されましたが、幾つかの難題にぶつかって話が進まなくなりました。

漢訳付安聰本は平成5年9月に新人物往来社から出版され、その1年後に『月刊ホツマ』平成6年9月248号を終刊号として松本先生は引退されました。

赤坂例会の会員はそのまま会の続行を望み、ビルの一室を会場に提供されてきた宮永光雄さんも引き続き提供頂けることになって、「ホツマ赤坂研究会」の名で存続することになりました。

ホツマの難解部分や難語は、多勢で討論し知恵を絞ることで解釈が進むことを、思い知りました。ホツマ赤坂研究会の方々には深甚の感謝を捧げます。

私のホツマ現代語訳は、平成14年春にまだやっと7アヤが終わった段階でしたが、会員の倉田俊介さんが隔月刊研究誌『検証ホツマツタヱ』の刊行を提案されました。

朝間ヒラクさんの「ホツマツタヱ真書の証明」と私の「現代語訳」を目玉に掲げる同人誌で、倉田さんご自身が編集人を、宮永さんが発行人を引き受けられて6月に創刊されました。

ホツマ現代語訳は第46号(平成21年12月)で完結し、その後はミカサフミの現代語訳や古事記との二書比較などに遷りました。

倉田さん・宮永さんには感謝しきれません。

『検証ホツマツタヱ』の刊行には紆余曲折があり、平成26年初め、崩壊の危機に瀕した時に手を差し伸べてくれたのが、創刊号以来応援を賜っている原田武虎さんでした。

静岡県沼津市に在住の原田さんは、拙宅に来られるなり私の現代語訳を出版しようと切り出されました。また、平成28年8月は、松本先生が神田の古本市でホツマツタヱの残簡を再発見されて50年になるので、「ホツマツタヱ再発見50年記念プロジェクト」の開催を企画しようと提案されたのです。

検証誌に関しては月1回上京され、編集会議をリードして難題を次々と解決し、執筆者を確保して原稿を集め、紙面を見違えるほどに充実させるという手腕を発揮され、懇願して81号(平成27年10月)から編集人欄に名を出させて頂きました。

その間に、かざひの文庫の磐崎社長と『はじめてのホツマツタヱ』3部作の出版計画をまとめ上げ、天の巻(平成27年9月)、地の巻(平成28年5月)、人の巻(平成28年9月)が50年記念プロジェクトの前に計画通り発売されました。

記念プロジェクトに関しては、多くのホツマ関係者に呼びかけて、10月11日に日本記者クラブでの「記念フォーラム」、11月19・20日に滋賀県高島市で「縄文ロマンの集い」を盛大に行いました。

確かに現代語で訳文を書いたのは私ですが、多くの方々から手取り足取りで著者にして頂いたこの幸せに、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

3.『ホツマツタヱ』にまなぶべきこと・『ホツマツタヱ』にかかれていることを一般の方に分かるようお話しください

 

日本民族は漢字を借用するまで独自の文字を持たなかったとされてきました。

しかし、少なくとも4千年前には、ヲシテと呼ぶ文字を使って通信手段とし、様々な記録文書を作って後世に伝えようとしていました。

ヲシテは日本語の音韻を1字1音で表す、表意表音文字です。

そのことが確認されたのは、今から50年余り前の昭和41年に、松本善之助という方が神田の古本市でホツマツタヱというヲシテで書かれた文献の残簡を見出し、その出所を訪ね歩いて、翌年ホツマツタヱ完本を再発見されたことに始まります。

ホツマツタヱはヲシテで書かれ、5音7音の長歌体が厳密に守られており、1行が12音です。内容は章立てで進み、各章をアヤと呼びます。

ホツマツタヱは第12代景行天皇に献上された奉呈文に続いて全40アヤからなり、約1万行ですからヲシテ12万字で出来上がっています。

書かれている内容は、大きく三つに分類され、先ず1アヤから16アヤまでを「天の巻」とし、日本の基層文化と共に天皇家の先祖(主に天神の時代)がテーマごとに語られます。

時代順に並べ替えてみると、アメノミヲヤカミによる宇宙創成から人類の発生を哲学的・宗教学的に見て、全ての生物は魂と魄に肉体を結い和して天上の神によって地上に降され、生命を終えると魂が解き放たれて天上に戻り、転生を繰り返すと説かれます。

人間も例外ではなく、神意に適う行いが魂を磨いて、来世は一段高いレベルの人として転生できるという思想です。

日本を建国されたクニトコタチは、神意をまとめた「トの教ゑ」を「トのヲシテ」という文書にし、「建国の理念」という形で残されました。

歴代の天神からアマテル神と嗣子オシホミミの時代まで、「トの教ゑ」の細部を補い国政の実践を通じて万民に行き渡らせることが「天の巻」の主なテーマになっています。

次に17アヤから28アヤまでを「地の巻」とし、「トの教ゑ」を更に実践的なものとして明確化し、国政の規範と位置付けて実践していく経過が綴られます。

アマテル大御神の皇孫ニニキネの傑出した人柄と優しさは、大御神に「クニトコタチの更の稜威」と称えられ「別雷の天君」という神名を賜る24アヤは、「トの教ゑ」を君主が完全に履行する治世の素晴らしさを感じさせます。

けれどもニニキネの兄テルヒコ・ホノアカリは、「トの教ゑ」に疎く、二朝並立の状態が生じました。

28アヤはホツマツタヱ前半を総括するアヤになっており、アマテル大御神もお亡くなりになります。

ここまでは寿命が6万年とされるマサカキの枝穂の数で数えるマサカキ暦(鈴暦)が使われていましたが、アマテル神の寿命と共にマサカキが絶滅したので、新たに太陰太陽暦のアスス暦が使われるようになりました。

「天の巻」「地の巻」を編纂したのは六代目大物主クシミカタマです。クシミカタマは先行きに不安が影を落とした状態で「地の巻」を閉じます。

 

最後の分類は29アヤから最終の40アヤまで、「人の巻」です。

並立していた二朝は対立が決定的となり、神武東遷が決行されてテルヒコ・ホノアカリを始祖とするニギハヤヒ政権は消滅吸収されました。

神武朝以降は天皇年暦で時たまアスス暦が表示される暦表記に変わります。即ち神武天皇以降が定型の歴史表記で、日本書紀はこれを踏襲したのでしょう。

そして、二代綏靖天皇から九代開化天皇までは比較的に記事が少なく、従ってホツマツタヱを原資料とする記紀では欠史10代と呼ばれるのも頷けます。

時代は進んで弥生時代中期、10代崇神天皇、11代垂仁天皇と次第に世の中が騒がしくなり、12代景行天皇は自ら熊襲征伐に遠征して平定したにもかかわらずまた謀反が起こり、皇子ヤマトタケを西へ東へと派遣し、平定し終えて帰還の途中で亡くなるという悲劇の結末でホツマツタヱは終わります。

ヤマトタケによる平定も、おそらくは束の間の安定で、ホツマツタヱは完結から百年足らずで隠されるという事実を予感させる終結です。

 

・現代日本人が『ホツマツタヱ』から学ぶべきこと~具体的な文章や言葉などを挙げながらお教えください~ 

 

ホツマツタヱの中で「これがトの教ゑだ」と具体的に説明されているわけではありませんが、幾つか例を挙げてみましょう。

1)スズカとスズクラ「スズカのふみ」(13アヤ)

ホシヰ(欲)を去れば スズカ(鈴明)なり 宝欲しきは末消ゆる

〈欲望を抑える心の強さを持っていることがスズカで、宝が欲しくて集めることに執着することをスズクラ(鈴暗)と言い、先細りで末が消えてしまいます〉

2)行き来の道(13アヤ)

メヲ(陰陽)を結びて 人心 世に帰る時 直ぐなれば また良く生まれ よこ欲しは アヱ帰らぬぞ

〈陰陽のバランスをとって生きることこそ、アメノミヲヤカミが求められる人心であり、直ぐなる心と称えられるのです。そして直ぐなる心を持って生きた人が天に帰り、次にまた生まれる時には、すべてに好条件を満たした人として、生まれて来ることが出来るのです〉

3)天の報い(17アヤ)

天の報いは 盗めるも 誹るも打つも 身にかえる

〈人は感情の赴くままに行動するが、全ての行ないは真澄鏡に写す如く、自分に返って来ます〉

 

4.ご活躍を通じて伝えたいメッセージ

 

ホツマツタヱは記紀の原典であることは、反論の余地がないところまで既に論証されています。

そして今や、ホツマツタヱが縄文・弥生時代の一次資料であることを証明する考古学上の物証が存在しているのです。

その物証とは、島根県雲南市加茂岩倉遺跡の国宝39個の銅鐸です。

ホツマツタヱの34アヤには、崇神天皇60年に起こった出雲フリネ誅殺事件を記録しています。この事件は日本書紀も崇神天皇60年条に書かれています。

「出雲に預け置いた神宝書を崇神天皇がご覧になりたいと仰せになり、朝廷から使節が派遣されました。出雲の神主(首長)のフリネは筑紫へ行って留守だったが、弟のイイリネが朝廷に返上したのです。

筑紫から戻ったフリネは、あわよくば隠匿しようと企んでいた神宝書を正直に返してしまった事に怒り、イイリネを騙し討ちで殺しました。

この弟殺しが朝廷に報告され、フリネの陰謀が露見して君は討伐軍を送ってフリネを殺させました。

その後にヒカトベという人物の子供が詠んだ長歌が両書に書かれています。

ホツマツタヱは57調67音の歌です。

その歌が皇太子を通じて「神の告げであろうか」と天皇に奏上されると、崇神天皇は「出雲祀れ」の勅を出されました。

この歌はホツマツタヱで読むと「出雲の人々は恐れてフリネの遺骸を谷筋の山中に39個の銅鐸と一緒に密かに埋めた」ことが分かります。

崇神天皇は、朝廷として祀りを行い、フリネを鎮魂しなければ、祟る恐れがあると判断されたのでしょう。

けれども、日本書記はホツマのこの歌を漢字訳するに当たって、歌の解釈を誤り、39個の銅鐸は全く姿を消してしまっています。その上、崇神天皇の心を動かして「出雲祀れ」の勅を出させる要素は皆無と思えるのです。

崇神天皇61年(西暦前37年)の事件を記録したホツマツタヱの記述通り、39個の銅鐸が記述通りの出雲の谷合の山中から出土したのです。

これほど確かな物証に裏付けられているのですから、アカデミズムが手をこまねいていても一般の方々は知識として脳裏に刻み付けても無駄にはならないでしょう。

以  上

 

 

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予約し忘れてた・・・。

前回の「はじホツ」勉強会。

18時スタートなので10分前くらいに会場に行くと、まだ誰も来てませんでした。

しかも会場となる会議室の電気はついていないし、お水やおしぼりも用意されてません。

部屋の入口のドアに「かざひの文庫様」という札も貼ってません。

なんかおかしい・・・。

内線電話で受け付けに連絡すると意外な返事が・・・・。

「予約が入っていません。」

。。。。。?  え・・・・・?  なに~~~~?

この日の参加予定は先生も入れて16人。

いまさらこんな大人数が入れる場所なんてありません。

あせる僕。

どうしよう・・・。痛恨のミス。

あせる僕。あせりまくる僕。でも待てよ・・・。

今この会場に誰もいなくて、ほかの団体の札も貼ってないということは、誰も予約してないんじゃ・・・。

ということで、予約状況を確認してもらうことに。

すると、しばらくしてお店の偉い人がやってきて、今日は誰の予定も入ってないとのこと。

助かった・・・。

ということで、その場であらためて予約し直しです。

安心して準備を始めてると、僕より先に着いてた人が笑いながら入ってきました。

予約されていないというので別の場所で待ってくれていたのです。

いや~、ご心配おかけしました。まいったまいった。

で、何事もなかったように「はじホツ」勉強会がスタート。

この日は4アヤ、アマテラス誕生が書かれたアヤです。

アマテラス誕生の際にはシラヤマ姫(キクキリ姫=キクリ姫)も重要な働きをします。

ちょうど僕が白山出張から帰ってきたばかりだったので、お土産にみなさんに平泉寺白山神社で買ってきたポストカードをプレゼントさせていただきました。

地元の写真家さんが撮影して手作りした、平泉寺白山神社の四季を撮影したポストカード。

4枚入りで200円。安い! しかも封筒にサイン入り。

平泉寺白山神社というのはもともとは白山平泉寺というお寺で、ここを開いたのは白山信仰の開祖ともいうべき泰澄というお坊さん。

いまからおよそ1300年前です。

平泉寺白山神社の境内にある御手洗池(みたらしのいけ)「平清水」の小さな岩に、白山の女神が現れたそうです。

これによって神仏習合の白山信仰の始まりとなったそうです。

その女神とはイザナミノミコト。

僕はてっきり勘違いしてました。

白山の神様とはキクリ姫だと思ってたんですが、それは石川県の白山比め神社の御祭神であって、平泉寺白山神社の御祭神はイザナミノミコトだったんですね。

白山山頂に奥宮があるのですが、ここは白山比め神社が管理しているので、ご祭神はキクリ姫ということになります。

ちとややこしい。

奥宮は白山山頂にあり、石川、福井、岐阜の県境ということで、ここを巡っては昔から平泉寺(福井)のものか白山比め神社(石川県)のものかで争いが続いたらしいです。

で、今は石川県ということになっています。

ちなみに「平泉」というと奥州藤原氏の平泉を思いだす方がほとんどだと思いますが、ルーツはこっちだそうです。

奥州藤原氏は祖である藤原清衡以来、熱心に白山を信仰していたそうで、

中尊寺には白山の神を招いて祀ったんだとか。

『白山平泉寺物語』です。リンクでアマゾンに飛ばそうと思ったら取り扱ってなかった。現地で買ってください!

この本で勉強しました。『白山平泉寺物語』。マンガです。おもしろいです。

ここには頼朝に追われた義経も逃げ込んできてるんですが、そこには藤原氏との関係もあったようですね。

一時は広大な敷地を持ち、宗教都市のようだったとかで、今も発掘が進んでおり、その全貌が明らかになりつつあります。

歴史ロマンです。

明治になって神仏分離令が出され、白山平泉寺から平泉寺白山神社となりました。

江戸期のお寺時代は上野寛永寺の末寺だったそうで、寛永寺の近くに住んでる僕としてはなんかご縁を感じて嬉しくなりました。

白山について書き出すときりがないのでこのへんにしときますが、本当に素晴らしいところなので、ぜひお立ち寄りください。

さて、「はじホツ」勉強会の話に戻します。

「はじホツ」メンバーには、白山に行くから菊姫というお酒をお土産に買っていきます! と宣言してたんですが、

①そもそも菊姫(キクリ姫)は平泉寺白山神社の御祭神ではない、

②そして菊姫のある酒蔵は石川県なので、平泉寺白山神社のある福井県には売ってない、

ということに行ってから気づき、帰りの小松空港で大慌てで購入したのがこちらのお酒。

純米大吟醸の「白山」と清酒「菊姫」。

勉強会のあとの懇親会(ただの飲み会?)でみんなと美味しくいただきました。

いや~、楽しかった、美味しかった。

 

ということで、次回の「はじホツ」勉強会は5月25日(金)18時から。

会場は秋葉原になりますのでお間違えのないように。

次回でもう9回目になるんですね。

みなさんとお会いできるのを楽しみにしております。

参加ご希望の方はフェイスブックのイベントページから。

フェイスブックをされてない方は直接僕に連絡ください。

iwasaki0408@gmail.com

ではでは。

 

 

 

 

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キクリ姫と白山

白山に祀られている神様と言えばキクリ姫。

日本酒にもありますね。

石川県白山市にある酒造のお酒です。

 

名前は有名なんですが、この神様、古事記には出てきません。

日本書紀の本文ではないところで、ちょこっとだけ出てきます。

イザナギが黄泉の国に行って、イザナミの変わりようにびっくりして逃げ出して、

黄泉の国との境である黄泉平坂(よもつひらさか)での別れのシーン。

ウィキからコピペします。

~~~~~

その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。

このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。

このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。

~~~~~

たったこれだけ。

キクリ姫が何者なのか、なんでここにいるのか、その後どうなったのか、

さっぱりわかりません。

ただ、この数行があるだけで、イザナギとイザナミを仲直りさせた神ということで、縁結びの神として人気だったりします。

謎だらけの神様で、なんで白山に祀られているのかもわかりません。

 

が、その謎を解くのが「ホツマツタヱ」なんですね。

4アヤのアマテラス誕生の場面に書かれています。

もともとの名はシラヤマ姫で、イザナギのお姉さん。

今の石川県のあたりに住んでたそうです。

で、弟イザナギの長男(アマテラス)誕生の際に産湯を使わせ、産着を贈りました。

その時、誕生したばかりのアマテラスの泣き声から、「あな嬉し」や「うひるぎ」という言葉を聞き取ったのでした。

そこで、イザナギとイザナミはシラヤマ姫を称えて「キクキリ姫」という名前を贈ったんだとか。

このホツマツタヱの記述から、白山にキクリ姫が祀られている理由、なぜキクリ姫という名前になったのか、イザナギ・イザナミとはどういう関係だったのかなど、みんなわかっちゃうんですね。

古事記や日本書紀、さらには神社の由緒などでは絶対にわからないことです。

僕がホツマツタヱはおもしろいな~と思うのは、

こういう記紀ではわからない謎の答えを教えてくれるところです。

次回の勉強会(木曜日)ではちょうど4アヤのこのあたりのお話の解説になると思います。

で、たまたまなんですが、来週の月・火・水と白山に行ってくる予定です。

なんというタイミング。

懇親会用に「菊姫」買って帰りますね。飲んでください。

 

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かざひの文庫五周年感謝祭に「はじホツ」メンバーが!

写真右から今村先生、奥様、早川さん、島金さん

4月6日に鶯谷の居酒屋さんで開催された「かざひの文庫五周年感謝祭」に、

今村先生ご夫妻や牛嶋浩美リーダーをはじめとして、

「はじホツ」メンバーの多くの方が駆けつけてくれました。

本当にありがたい・・・。涙出ます。ありがとうございました!

次回の勉強会(4月26日)で8回目だから、始まってから約半年ちょっと。

みなさんと知り合ってからまだ半年ちょっとなんですが、なんかもう、昔からのお友達というか、親戚みたいな感じもします。

これってソウルメイト的な? よくわかんないけど(笑)。

妙に落ち着く。

あわただしくてあまりお話もできなかったんですが、いろんな方が撮影した写真をこっそり自分も保存したので、ここで記念にアップしておきたいと思います。

リーダーの浩美さん。

伝説の焼酎、金霧島の「玉」(ぎょく)を持参してくださいました。

この焼酎と出会ったのも、はじホツ勉強会がきっかけ。

秋葉原で開催した第2回の勉強会の打ち上げ会場の居酒屋「霧島」で、

あまりの僕らの飲みっぷりに店員さんが気を利かせて持ってきたのがこの焼酎でした。

なんか、記念のお酒になりました、これ。

右から後藤さん、原田武虎さん(検証ホツマツタヱ編集長)、岡本さん、平山さん

みなさん、お酒やらお菓子やら、たくさん持ってきていただいて、

気を使わせちゃって、ほんとすみません。

お酒だけ、紹介させていただきます。

これは原田さんが持ってきてくれた沼津のお酒。

東京へ向かう途中、新幹線の棚から落下し、あやうく大惨事になるところだったとか。

一升瓶のお酒も、はじホツメンバーの前では瞬殺でした。

早川さんが持ってきてくれた日本酒2本。

「開運」「貴樽」って、名前がなんか嬉しい。

あっちゅうまになくなりました。

 

こちらは島金さんが持ってきてくれた日本酒。

ラベルが特製! こんなことできるんですね。いいこと知った。

今度真似します。

平山さんの笑顔溢れる「かざひの文庫」、これ、かわいいですね~。

では、ここからは会場の風景をまとめてどうぞ。

なんか完全にただの宴会ですね。

楽しかったです。

そして、みんなが書いてくれた寄せ書き。

これ、一生の宝物です。

こういうの、やりたかったんですが、自分でやるの恥ずかしいので、用意してなかったんですよね。

そしてら、お店のママさんが準備してくれてたという。

※用意してくださったのは『まんが古事記』のふわさんでした。

2次会のスナックで吉田拓郎を熱唱するふわさん

 

飾りつけもやってくれてたし、リボンまで手作りで用意してくれてました(まあ、これは微妙でしたが(笑))。

この場を借りて、一代さん、ありがとうございました。

ってことで、みなさま、本当にありがとうございました。

鶯谷って、映画『シャルウィダンス』の舞台にもなったダンスホールがあって、

そこでダンスを見ながら食事(もちろんお酒も)できるんです。

なので、今度はそこで1次会やって、一代で2次会やって、スナックで3次会やりましょう。(って、どんだけ飲むんだ?)

次回の「はじホツ」勉強会は4月26日(木)18時から、四谷ルノアールです。

お待ちしております。

 

※おまけです。二次会もすんごい盛り上がりましたね。

鶯谷のスナックです。この後、豊田さんも合流。鶯谷の夜は終わらない・・・。

 

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卵で生まれたアマテラス

古事記の原典とも言われているホツマツタヱですが、

古事記の記述と異なるところがいくつもあります。

そのひとつがアマテラスに関する記述です。

古事記ではイザナギが黄泉の国から帰ってきて禊をしたときに左目から生まれたのがアマテラスです。

ご承知の通り、女神ですね。

が、ホツマツタヱではイサナギ・イサナミの両神(ふたかみ)からお生まれになります。(ホツマツタヱでは「イサナギ・イサナミ」といいます)

最初に生まれた子はワカ姫(ヒルコ)で、女の子だったため、なんとか世継ぎとなる男子が欲しいということで、1000日にも及ぶ行を行って授かったのがアマテラスでした。

しかし、懐妊して10か月経ってもお生まれにならず、なんと96か月も経ってようやく生まれたのでした。

しかもしかも! 卵の形で生まれたというんですからびっくりです。

このあたり、原文をご紹介します。

~~~~~

かくましわりて はらめとも とつきにうまず としつきお

ふれともやはり やめるかと こころいためて こそむつき

ややそなわりて あれませる あまてるかみぞ ふそひすず

ももふそゐゑた としつきゑ はつひほのほの いつるとき

ともにあれます みかたちの まとかのたまご いぶかしや

~~~~~

で、卵で生まれたってんで、まわりもみんなびっくりするんですが、

その理由もちゃんと書かれています。

ここは今村先生の現代訳でご紹介します。

説明しているのはイサナミの父であるトヨケ大神(豊受大神)。

第5代タカミムスビという大事な役職についている神様です。

「純粋無垢な胎児には、世間にいる邪悪な心を持った者の念が作用して、障害を及ぼすことが多いのです。まして天神の世継ぎの誕生ともなると、嫉妬心に凝り固まった者たちの念がイソラという悪鬼を生み出し、胎児に悪さをしようとします。

この障りを避けるために、私は願掛けをして八千回の禊を行いました。この禊によって、胎児を包んでいる胞衣(えな)が厚く強くなって卵の殻のようになったのです。この強い胞衣がイソラの祟りを撥ね返して、世継ぎの皇子を守っているのです」

とまあ、こんな説明です。

なんとも興味深いお話です。このあと、アマテラスを卵から取り出す話や、アマテラスの幼名についてなどの話があり、白山とキクリ姫の話も出てきます。

なぜ白山の神様はキクリ姫なのか、不思議に思ってる方も多いと思いますが、これもホツマツタヱにはちゃんと書かれています。

まあ、そこらへんは本を読んで確認してください。

ということで、次回3月21日の「はじホツ」勉強会はこのようなアマテラス誕生の物語が書かれた4アヤを読んでいきます。

ご興味のある方はぜひお越しください。

※次回の「今村先生とホツマツタヱを楽しむ夕べ」は3月21日(水)15時から。

四谷のルノアール4階で開催です。参加費は1500円(ドリンク付き)。

参加希望の方はご連絡ください。

問い合わせ:iwasaki0408@gmail.com

フェイスブックのイベントページはこちら

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ワカ姫を祀る歌姫神社

 

ホツマツタヱを知らない人にはあまり馴染みのないワカ姫。

ホツマツタヱにとっては重要な人物(神様?)で、

「縄文の叙事詩」といわれるこの壮大な物語は、ワカ姫から始まっています。

ワカ姫(斎名はヒルコ)はイサナギとイサナミの第一子で、

両神(ふたかみ)が新婚生活を送ったというイサ宮で生まれたようです。

で、このイサ宮というのは筑波山の西北麓なんだそうです。

 

古事記や日本書紀にはワカ姫ってこんな扱いでは出てこないので、

祀られてる神社も少ないんですよね。

で、今村先生は、筑波に歌姫神社があると知って、ピンと来たそうです。

ワカ姫が生まれた筑波にある歌姫神社ということは、

祀られているのはワカ姫に違いない! と。

それでいてもたってもいられなくなり、現地調査を開始。

すると、歌姫神社のお社の中に「住吉明神」の額が置かれているのを発見!

これで、確信したそうです。ここに祀られているのはワカ姫だと。

ホツマツタヱではワカ姫は「捨て子は育つ」にならって捨てられ、

重臣のカナサキが拾い、育てることになります。

※拾った場所が兵庫県の広田(ヒロタ=ひろった=拾った)神社です。

このカナサキというのはアマテラスから「スミヨロシ」という名を賜ります。

で、人々から「スミヨシ」と呼ばれたそうです。

つまり、住吉神社の神様は「スミヨシ」=カナサキであり、

ワカ姫の育ての親ということですね。

で、住吉神というのは現在、歌の神様としても知られています。

ワカ姫というのは、名前からもわかる通り、和歌の道を究めた人でした。

 

筑波では古代から歌垣が盛んに行われていたそうです。

その歌垣がこの歌姫神社を中心に行われていたことが、郷土史の資料に残っているそうです。

面白い符号ですね。

 

そういえば筑波山は男体山と女体山のふたつの山からなり、

男体山に祀られているのがイザナギ、女体山に祀られているのがイザナミです。

古事記を読む限りでは、イザナギとイザナミと筑波山の関係性はないので、

後世の後付けと思ってたんですが、

ホツマツタヱを読むと、ここに両神が祀られていることに納得がいきます。

 

いろいろと興味深いです。

 

※次回の「今村先生とホツマツタヱを楽しむ夕べ」は3月21日(水)15時から。

四谷のルノアール4階で開催です。参加費は1500円(ドリンク付き)。

参加希望の方はご連絡ください。

問い合わせ:iwasaki0408@gmail.com

 

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『はじホツ』ホームページ、はじめました!

毎月、「今村先生とホツマツタヱを楽しむ夕べ」を開催しているので、

勉強会や懇親会の報告などしたいなあと思っていたので、

ホームページ立ち上げました。

コメントなども大歓迎です。

まだ、始めたばかりでふらふらなホームページですが、

じょじょに形を整えていきたいと思います。

詳しい人いたら教えてください。

次回の「今村先生とホツマツタヱを楽しむ夕べ」は3月21日(水)春分の日!

15時から四谷のルノアールで行ないます。

参加費はドリンク付きで1500円。

終わった後は近くの居酒屋さんで懇親会です。これがまた盛り上がる。

楽しい勉強会&懇親会ですので、お気軽にご参加ください。

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